第2章 世界の差距
翌朝、アリシアは朝食も取らずに屋敷の書庫へ向かった。
本来なら、一から学び直す必要などない。ここは彼女の第一の人生の世界であり、十五年暮らした土地だ。魔法の水準も、習俗も、礼法も――大枠は分かっている。
だが、かつての公爵令嬢は甘やかされて育ち、魔法の授業が大嫌いだった。教科書など十中八九、まともに読んでいない。二百年も経てば細部は霞む。曖昧な記憶で当て推量するより、自分の目で確かめたほうが早い。
なにしろ、これからの計画すべてに関わる。何ができて、何ができないか。何を先にやるべきか。まずはこの世界の「地力」を把握しなければ始まらない。
書庫は広大で、書架が果てしなく並んでいた。ロークステット家の伝承書が大半で、貴重な魔法書も少なくない。この世界は実力主義で、貴族も強くなければ爵位すら守れない。母は中級魔法使い、父と兄は騎士――屋敷に魔法関連の書が欠けるはずもなかった。
数日、彼女はほとんど書庫に籠もり、魔法に関する本を片っ端から繰った。読むほどに確信する。
この世界の魔法は、やはりまだ萌芽期だ。
火を強める、風を刃にする――そんな基礎的運用に留まり、魔法の本質への探究はほぼ空白に等しい。
試しに『初級治癒術』を開く。治癒の光紋は太く不格好で、数筆描いてから司祭が長く集中し、擦り傷ひとつ治すのに小一時間。前世を思い出して眉が寄った。
教会前の見習い司祭ですら、光の塊をぽんと当てるだけで火傷の水疱がすぐ引いたというのに。
さらに読み進めても、この世界の魔法書は魔力の貯蔵と放出、攻撃への凝縮ばかりだ。魔法を「別のこと」に使おうと考えた者が、ひとりもいない。
前世では魔法は生活に溶けていた。火傷は治癒術で即座に治り、商隊の荷は減重の魔法陣を刻んだ荷車で運び、夜の街は油のいらない魔法街灯が照らす。
だがここでは、薬膏と家畜と蝋燭だ。魔法はまだ「力」でしかない。戦士の武力、貴族の話の種――生活を変える道具ではない。
二つの世界は、まったく別物というわけではない。
アリシアは本を閉じ、腹の底で納得した。ここは、彼女の世界の「大昔」だ。魔法の法則は通じ、素材も通用する。前世の知識はすべて使える。周囲が高尚だと崇める魔法も、彼女にとっては数百年前に遊び尽くした基礎にすぎない。
だからといって、侮りはしない。
むしろ、遅れた土地ほど、誰も成し得ない成果を出しやすい。アリシアは口元にかすかな弧を描いた。彼女の目的は、傷を治すだけではない。
大きく肩の力が抜けた。つまり――魂の損傷を治す魔薬は、自作できる。市販はなくとも、彼女は世界でも指折りの魔薬師だ。さらに言えば、時代を数百年先取りした知識は、ここではすべて金になる。
もちろん一歩ずつだ。まず治療、次に資金。足場を固めてから、遠大な夢に手を伸ばす。
底が見えたところで、アリシアは買い出しを決めた。必要なものは頭の中で整理済みだ。魂薬の主薬は高価、節約して使う。低級素材は消耗が激しいから多めに。魔蜘蛛糸は――完成品を買うか、魔獣ごと当たるか、店で見て決める。
彼女が欲しいのは魂薬の材料だけではない。書庫を漁り、自室の小金庫も確認した。公爵令嬢として十五年かけて貯めた小遣いが一万金貨以上。多いようで、高級素材は数百、数千金貨が当たり前で、あっという間に溶ける。治療と並行して稼ぐ必要がある。稼ぎ口なら、すでに大まかな構想があった。あとは材料さえ揃えばいい。
出発前、執事に言う。
「魔法ギルドのほうで買い物をするの。お母様のギルド徽章を貸して」
ギルド会員は素材店で割引が利く。母は中級魔法使いだから徽章を持っている。以前の公爵令嬢なら割引など気にしなかったが、平民時代に底を這った彼女は違う。研究は金食い虫だ。一枚の銅貨まで計算する。
執事は心配し、護衛を四人つけ、馬車を用意し、道中も安全を口酸っぱく言い含めた。
聖ロートの都は巨大だ。幾度も拡張され、人口は十万近い。中心は王宮、その周囲が貴族の上町。中町には職業者と各種ギルドが集まり、武器を携え声の大きい冒険者が行き交う。最も広い下町は平民の居住区。
彼女の目的地は中町。魔法ギルド、冒険者ギルドなどが集まる区域で、上町の静謐さとは別世界の喧噪と活気がある。カーテン越しに眺める街並みは、懐かしくもあり、どこかよそよそしくもあった――前世の「魔法が当たり前」の世界に慣れすぎたのだ。
眺めているうちに、ふと思う。
この世界も、ああしてしまうのは――案外、面白いかもしれない。
馬車は魔法ギルド脇の最大手素材店の前で止まった。公爵家の紋章は目立つ。すぐに店員が飛んでくる。アリシアは護衛を外に待たせ、スカートの裾を整えて扉を押した。
店内は広く、素材の種類ごとに区画が分かれている。客は少なく静かだ。ラベルの貼られたカウンターを目で追う。高級素材は個別保管だが、見本と説明と値札が並び、分かりやすい。
アリシアは迷わず魔薬素材区画へ向かった。
――まずは魂を安定させる薬を揃える。稼ぎの道筋はすでに見え始めている。魂さえ持ち直せば、手持ちを金に変えれば、この「法神」は再び帝国を震え上がらせる存在に戻れる。
手首の鈍い痛みを握りつぶすように指を折り、深呼吸して、彼女は区画の扉をくぐった。
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